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そんなに俺が悪いかよ。そんなにアイツが悪いかよ。

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「あなたがそう話すのも、全部読んでました!」 「感情をさらけ出して!」 「もっと笑って!もっと怒って!」 などと言われ続けるのが、とても苦手だ。 もちろん日常会話で、そういう言葉を時々交わすことがある。色々な気持ちがそう言わせるし、私もそのような言葉を言う時がある。 それは平気だし、むしろ楽しい。 苦手なのは執拗にそれらを伝えてこられる場面だ。 「感情を出せない人間」 「先を読まずにその場しのぎの人間」だと決めつけられているかのように感じる。 心と身体の表現が大きい人達がそう在ることには、とても賛成だし、むしろ好きな位だ。 (その人達は大きいとは思ってないだろうし。) そして私もまた、自分のことを自分で知っていなかったから、 説明出来ていなかった。 「全部読んでました!」と言われると、 「先読みしていたことを相手に伝えるって、それ、どういう意味があるの?」と思う。 「感情をさらけだして!」って言うけどさ、 私は充分に楽しんでいるし、充分に怒っているんだけどね。 大抵「プライドが高い」「臆病者」「あきっぽい」っていう捉え方をされる。 楽しんでいたら、いつもいつも分かりやすく笑わないといけないかな?そして、これは笑わない、っていう意味じゃないよ。  しかもさ、恐ろしいんだよね。 しばらくさ、自分が周囲に、むしろそういうことを言っちゃう人間になってしまってたよ。 本当は、自分が言われて嫌だったことだった。 全部。 最近は、随分自分らしさを取り戻した気がする。 だから、その心のままに行動したら、 今日、とても考え方に共感する人に出会えた。 自分の事業にも、確実に拡がりが出来ると確信した。 そして、こんな内容、今日初めて書いたな。 文脈の繋がりの表現が雑で、 まだまだ伝わりづらい文章だと思う。 具体的に表現する練習を重ねるのみだな。 読んでくださってありがとうございます😄

本が好き、文章が好き

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昔から本が好きだった。 本という存在そのものが好き。 ある人が考えた体系を、まとめようと工夫したものが凝集されていると感じると、 それだけで好き。 文章を書くのも好き。 文章を読むのも好き。 でも、本好きとか文章好きだって言うと、 「カシコ(賢い)やなあw」とか 「真面目だね」 「はいはい、本から入るタイプねw」 と言われることも多かった。 すごく嫌だった。(今でも嫌だ。) だって、なんだかステレオタイプの会話で、 面白くないと感じるから。 「本を読む」「文章を書く」ということと、他の事柄を、全部一緒にして投げつけられている感じがした。 アイデアがないんじゃないですかとか、 ポエムですよね~(笑)、とか 頭でっかちになっていると感じるとか、 いやいや弄ってると見せ掛けて誉めてるんですとか、 そういったことと「本を読む」「文章を書く」という行為は、出来れば、せめて時々は、分けて伝えて欲しいなあーと思うタイプ。 (私自身への言いにくさもあるのかもしれないな。)なんか、「本そのもの」「文章そのもの」なんなら「ポエム(詩)」を冒涜されている感じがする。 因みに私は、 アイデアまだまだ乏しい、 自分に向けた文章もSNSに書いている、 知識に翻弄されて行動できない、 等々ということは沢山あるから(笑)、 コミュニケーションは言葉だけではない。 だからこそ、言葉を使うとき、 丁寧に選んでいきたい。 しっくりくる表現に出会うと、身震いする。 それって、言葉を介して目に見えないものに到達しているんじゃないかと思うよ。 その瞬間を毎日夢見て、 相手に伝わる言葉をずっと探し続けながら。 この前の夕焼けこやけ

あんのうんの中で

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今日は、 アナと雪の女王2の日本初公開日だわ。 前回の1の時、 主題歌「ありのままに」(Let it go)が大変流行した。 抑えてきた自分を解放して「自由よ!」と叫ぶ。一方で周囲からの孤立をどんどん深めている。あの歌を歌いながら氷の城を創っていくシーンで、その2つの側面がエルサに同時に存在している、そんな歌だったように感じていた。 だから爆発的に流行って大勢があの歌を笑顔で歌うのを見聞きして「泣かずに歌えるの皆スゴい」と、当時思っていた。わたしはボロ泣き~。(でも歌う) そして今回の主題歌。「心のままに」(into the unknown) 前回と全然違う。って思ったんです。 「自分の心の声を信じて従え、未知の冒険に出よう、。」いう内容。しかも、前回の「孤立バッチこーい。そっちのが楽!!」と叫んでいたエルサから変容して、大切な人達や自分の居場所の大切さやぬくもりを重々に知っているエルサが。 因みに、私の大好きなモアナの主題歌と内容が似てる。オマージュかなと思えるシーンもある。 2って、 1とくらべて観る人が少ないことが多いよね。 私は、個人的に2の内容がとても楽しみ。 今の変化変容の混沌にみえる時代に、とても必要なことを教えてくれる、そんな気がします。 1も良かった。プリンセス像が変わったよね。モアナもだけど。プリンセスの横に、寄り掛かるための男性がいなくなった。自分の足で堂々と立ち、守るために行動をするプリンセスになったから。 ディズニーやるな。

1度途切れると数日途切れるねー

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今のところ、問題も感じていない。 前だったら、 「あーブログ、また途切れさせてもたー」とか、 苦しみ、苦しんでいるのに離れていく、というパターンだったな。 一体、何と比較し、闘っていたんだか。 強迫観念のように、書きたくもないのに「書かなきゃ、書かなきゃ」という状態になって書くことになったら、とてもつまらないなー。と思って過ごしていた。 それも、このブログの目的が、書くことを練習することと、書くことを通じて自分を知るということだからだ。何かをPRすることではない。 そしたら、また書きたくなって書き始めた。 私は福祉の界隈にいて仕事をさせていただいている。お客さんも働く人も、色濃く人。人。 人がいないと仕事がない。だから誰かによって「させていただいている。」という感覚に、私はなるらしい。 そんな福祉界隈で、この大きな変化変容の時代を体験している。職員とか利用者とか関係ない。色々な人の、色々な生きざまの側にいるということ。自分自身もまた、色々な人の中の一部なのだということ。そういったことが、生々しく、極彩色の色味を持って感じられる。 退屈とは縁遠い日々だ。 「正解とか不正解は、なかった。」 ということをまざまざと突きつけられる日々。 あるのは制度だけ。 しかし、制度が枠組みなのではないし、ましてや天井ではない。制度は最低ライン。 最低ラインからどのように造り上げるのか。 他の人と、自分自身で。 自分自身の価値観も、日々アップデートされていく。 面白い。 他の何も不必要と思える程。 でも、ふと、こうやって、書いていくだろう。 それって、何でだろうね。 福祉界隈で仲良くさせてもらっている人の 動きかたも様々だ。すでにこれを書きながら、メッセージのやりとりをした。それぞれに感じ、考え、動いていく。とても心地よい。 さ、朝がきた~。 青々

わたしもあなたも諸悪の根元だし、別にそうでもないし

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自分のことを分かって欲しい人だらけ。 A「わたしのこと分かってよ!」 B「いーや!それよりわたしのこと分かってよ!」 A「Bのせい。Bが悪い。」 B「いーやAのせい。Aが悪い。」 Q1.このままいったら、どうなると思いますか? Q2.さらに互いに自分の気持ちや考えを相手に伝えずに、AさんはAさんの心の中で、BさんはBさんの心の中で呟き続けたら、どうなると思いますか? Q3.まだまだ自分の気持ちや考えを相手に伝えずに、AさんはAさんの解釈を第3者に話してBさんには伝えない。BさんはBさんの解釈を第3者に話してAさんには伝えない。これを一定期間続けると、どうなると思いますか? Q4.このパターンを抜け出さないようにするためには、どうすればいいと思いますか? Q5.このパターンを抜け出すためには、どうすればいいと思いますか? なんかに気付いたら、 自分にできることをやっていこうよね。 まあ、気付いてもやりたくないって人もいるもんね。他人や何かのせいにしてたら、なんだか楽に思えるかもね。もしくは怖いかも。 秘密の呪文。 「ワタシハコンナニチャントヤッテルノニ、 アイツハナンニモヤッテナイ!」 私は、緩やかな自滅は、もうこりごりやわあ。 だから、やり続けるね。自分に出来ることを。 さー、そこのアナタもご一緒に。 変化こそ常態。 たーのしーよー☆ 寒さをぶっ飛ばせ(脈絡ナシ)

そうでもなくない?

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キョーゾン。キョーセイ。 共存。共生。 人間が「ありゃ。みんな違うなあ。」って実感したら、 次、どーする?排除しあうか、共存を試みるか、 なんやろかね。 長らく、 数人の指揮官の判断を元に、大勢の人間が従い動き、何かを生み出してきた。 そりゃー凄まじい技術の進歩。法律の整備。知識の蓄積。安心安全な棲み家。 一杯、手に入った。一部の人間だけど。 しかし、大集団を極めたら、今度は無理も出てきたよね。 "個人がありのままでは生きづらい世の中"、ってなもんよ。 ありのままを、自分で認めたことがない人が、 他人をありのままで認められることなんか、なさそうだね。 従う人は従いたくなくなる時がある。 指揮官はひとつの判断ミスでメタメタに叩かれる。 不意に涌き出る怒り、突然こぼれ落ちる涙にも、ちゃんと理由がある。  そんでもってさ、在るものもないことにしようとしてたんだよね。 だから蓋をしてたら、その在るものが「もしもーし、在るんですけどー」って、 蓋をノックしている今の時代。 これ以上無視出来ない感じにノックの音が大きくなってきとる。 みんなが気持ちよくいきられるのはどんな社会やろ? そして、それ目指すまでにどんなことになるんかいな? 個人的には、ワクワクするけどなあ。 共存→ケンカしない。一緒にいることができる。 共生→助け合って生きている。片方がいなくなるともう片方は困る。 わお。個人的には共生、目指したいなあ。 変化はさ、楽しい面もあるし、キツい面もあるんやけど、 出来たら、わたしは人間が滅びて欲しくないからなー。

まんちきちん

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まんちきちん、って言葉、使いませんか? どういう意味かって「もう一杯、満タン状態」のこと。近畿地方の方言なんかいな。 いや、まんちきちんを熱く語りたい訳じゃなく。 まんちきちん、あ、また打ってしまった、いわゆる満タン状態は、 すごく満たされているのかなあ、という話を考えてみたかった。 私の感覚では、必ず「満たされている」という訳でもない感じがする。 「うーっ、苦しい苦しい!パンパン」という状態のことが多い感じ。 例えば食事もどうなんやろね。 満腹まで食べたとする。 「うーっ、もう食えない!お腹パンパン!動くと苦しい」って時。 本人は恐らく、ちょっとした幸せと達成感、そして苦しさがある。 マジの満腹の時の苦しさって、形容し難くないですか。 周囲の人は「あーあの人、満腹なんだ、幸せそうだなあ~」か「うわー苦しそうー」 と思って、いつまでも釘付けにはならない。 内蔵には非常に負荷がかかっている。 そういえば人間の歴史、食べ物が飽和状態かつ高カロリーな国がそこそこ広い面積をしめるような環境になったのはまだ最近のこと、食べ物は基本なくて飢餓と隣合わせだった時代がすごく長かったから、基本「食べ物をみたら沢山食べようとする、幸せを感じる」という感覚があるらしい。 今はそうじゃないのにね。 満タン状態じゃない時は、 満タン状態に恋い焦がれ、目指そうとする。 でも一度満タン状態になったら、「もう充分です」と、 そこに留まろうとするかしら。 しないよね。 いつの時代だってそう。 じゃ、今の時代はどんな時代やろ? あなたはどう思います?

ボーッとしてる/してない

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 クイズを出して正解を答えられなかった 解答者を「ボーッと生きてんじゃねーよ!」と、5さいの女の子が叱る。 そんなキャラクターの存在、知ってます? これ。 【チコちゃんに叱られる】  そんな「チコちゃん」に対して、 いろいろな意見がある。 ・「せやな!ボーッと生きてる人多いよ!      よく言ってくれました!」という人 ・「いやボーッと生きてないし。        あんたに何が 分かるん?」という人 ・「まあ状況によりけりだよね」と思う人 ・「いやクイズ不正解だったらそういう       リアクションなんだよねぇ。」という人 ・特に関心のない人 ・そもそも5さいのキャラクターなんて     いたっけ?という人 ・その他の人  などなど、実在していない「チコちゃん」に対して、いろいろな価値観をもった人がいる。  そんな中、 「チコちゃん」がいた方がいいのか、 いない方がいいのか。 みたいな話が、出てくることがある。 「いた方がいい!」 「いや今すぐ自粛して使用禁止にして!」 みたいに意見が分かれる感じで。 いた方がいいのか悪いのか。 いいか悪いか、という話をする時は、 何かと比べている時。  「自分がいいと思うもの以外は滅びたらええのに。」という人もいる。 「他人と違う=悪いこと」「その時の自分の気持ちを感じそれに基づいて考え行動すること=身勝手、意味不明」という教えに、素直に従ってきた人達もいる。  単純に「そんなん考えること自体面倒やなー」って思う人もいる。 自分と違う考えの人と、ていねいに言葉を積み重ねて話し合うことはわずらわしいと感じる人もいる。結構いるよね? 空気や雰囲気は自分なりに感じて自分なりに察するけれど、その人が何を考えているかまでその人に尋ねることは、勇気がいるし面倒くさいよねって人もいる。   人と人の間における全てのことは 「いろいろな人がいるよね...」という、 この言葉一択で話せそうな気がしちゃうんだけ...

やり方はなんでもいいって

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ブログを再開するにあたり。 わたし、改めて面と向かってやろうとすると、 出来ない性質でしたわ。 そうじゃないかもと思っていたけど、 やっぱりそうでしたわ。 だから「よしブログ書こう!」と思って向き合うと、出来ませんでしたわ。 じゃあ思ったときにサササとやっちゃうのが 一番向いとるな。 これを進めていくと「多動」になるんだろう。 周囲の皆さん、あきらめてね! 文章を書くのは好き、 時間は十分にない。 でも、サササとやっちゃう性分である。 →条件として最高じゃね? というわけで書きます。 頭に溢れていることを。 「文章を書く時間を設けなければいけない」と思い込んでた。 私にとっては最も合っていないスタイルやんけ。 そりゃ、書けんわ。(笑) 私はなんか言いたいんやろな。 今の変化の世の中に。 いいこともわるいことも沢山起こるように見える世の中に。 案外わるくないよ、って。 あなたはどう思いますか?

自分のための覚え書き

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自分の魂に嘘をついてまで 生き延びた わたしのやりたいことが出来なくても 生き延びた 真っ暗な闇の中の ひとつの閃光を信じて あ、だから、 その閃光が何なのか、あきらかになれば わたしはなれる わたしに だって、その光を、 ずっと追い求めているのだから わたしには、見えているのだから

WHO 健康の定義なんですけどね

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 WHO(世界保健機構)。 世界規模で、健康についてのあれこれを やっている機関です。 そこで言っている『健康の定義』ってやつがありましてね。(義務教育でやればいいのに。) 『Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity. 健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが 満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)』 ってやつ。 20年以上前の1998年にね、この定義に、肉体と精神と社会だけじゃなくて、「spiritual(スピリチュアル)」と「dynamic(静的に固定されていない)」を入れてはどうかという提案があったのよ。(看護の勉強した人は授業で習った人も多いんじゃないかな。) ↓↓それがコチラ↓↓ 『Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity. 静的に固定した状態ではないということを示すdynamic は、健康と疾病は別個のものではなく連続したものである、という意味付けから、また、spiritualは、人間の尊厳の確保や生活の質を考えるために必要で本質的なものだと いう観点から、字句を付加することが提案されたのだと言われています。 ("全て動的に繋がっていて、本質的"なんて、ワクワクしちゃう。どーいう訳をつけるかな。) わいわい がやがや   私ね、大学の時に研究したんだよね。 うまく出来なくて、大きなアンケートみたいに なっちゃったんだけどね。 看護学科の学生を対象に、 『授業で習ってるけどさ、ぶっちゃけスピリチュアルという言葉にどんなイメージを持っていますか』って。 和訳だと「霊的」なんて訳になってるけどね。 その時の皆さんの答えもとても興味深かったな...

枠や型にはまりたくないという願いから自由になった

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 昔、枠や型に嵌まりたくないと思っていた。 理由は、 その瞬間瞬間の自分の考え方や感じ方の幅が、 限定されてしまうように感じていたからだ。 この感覚は今もあまり変わってはいない、  昔、それを紐付けて、 心理学や哲学、宗教が嫌いだと感じていた。  でも違った。 様々な枠や型は、 世界に蔓延する様々な価値観のひとつであり、 それらを知り体得することで、 自分の知らなかった価値観を通して世界を見ることが出来るのだと分かった。 自分を狭めるのは、何かの価値観に囚われて、 かつ囚われていることに気付かないか、 囚われていることを甘んじている時だろう。  正しい間違ってるではなく、わたしはわたしを生きる。  でも、生きているなかで、 正しいだとか間違いだとかを述べるときもあるよ、正しいと間違いを述べるときは、 何かを比較している時。 その比較の基準、 誰がどのような目的で造った基準なのかを 注意深く見極める必要がある。 生きていくための智慧だったらいいんだけど、 この世界の命の法則だと思っていたら、うっかりと頭の回る人間の造った、数人が甘い汁を吸うための法則だったりするからね。 命をなくすよ、気を付けて。  時には、価値観と価値観が重なる箇所を 発見することもある。 それを普遍性と呼ぶのだろうか。 また、とある価値観では打破できない困難だと感じることでも、他の価値観では存在すらしていないと分かることも出来る。逆もしかり。 生きるための窓がたくさん開くし、 ただ開くのを待つだけじゃない、 自分で拓くことのできる人になる。 わたしはわたしを生きる。

子どもたちはよく分かっている、大人たちは

『命に嫌われている』  昨日、主催してる子ども食堂だった。 子ども達がいつもパソコンで色々観ている。 そしたら、流行っているうたや動画にも、 触れる機会がある。 そこで知った、この歌。 一部で流行ってるんだって。 何人か盛り上がってた。 『あ!命に嫌われている!や!』って。 好きで聴いているみたいだね。 子どもたち分かってる。知ってる。 『早く教えろよ。実感を伴った生きるを。 わたしたちの本当の願いを思い知れ。 お前の中にもあるものだろう。 わたしたちが探求することを邪魔するなよ。』 って事実を、 音にして突きつけられたようで、 昨日はビリビリと突き刺すような慟哭だった、 こんなにも狂おしい。 『命のことを知ろう。もっと、どんどん、一緒に。ずっと、どんどん教えてやる。』と言った。 おい、わたしよ。 わたしたちよ。 一刻も早く取り戻せ。 そして伝えていけよ。 一瞬も無駄に出来ないぞ!! 『命に嫌われているをうたってみた』 https://youtu.be/eq8r1ZTma08

雑貨の在りかと起業家たちの棲み処

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 整理した。母の思い出の品を。  思い出の品、と言っても、 ありとあらゆるものがあり、混在している。 今回の整理は、そのうち、山ほど残っている雑貨類や置物類だ。 母は生前言っていた、「私が死んだら全て棺桶に入れてね」 いや、母ちゃん。無理だったよ。多すぎて棺桶の底が抜けるわい。   etc.etc...  彼女は若い頃、憧れだったパリに行くために、 父親に「海外出張が決まった」とウソをつき、実際は、勤めていた大きな企業を退職した。 「当時は、”女1人で海外旅行に行く”と言ったら、パスポートセンターの人から ”悪いことは言わないから、やめときなさい”と説得された。そんな時代だったよ~」 と言っていた。  6か月、パリにとどまらず貧乏旅行で色々な国をめぐり、 ものすごく「自分が生きた」6か月だったと語っていた。 普段できなかったのに、なぜか売るためにレース編みとか普通に出来てた、らしい。  結婚相手が亡くなってからは、そのお金を盛大に使って、 彼女は、他にもたくさん、海外に行った。 私も一緒に連れられて行ったところも数か国ある。 見たことのないものを見たい、触れたい、一心だったと思う。  母は、生来、とても無邪気で自由な人だった。 色々あって、今世にてそれを十分に発揮できないままに生を終えた、 と私は思っている。(”また来世!”) しかし、そんな母が方々で買い集めたものの中に、 本人の希望や無邪気さが発揮され、込められているような気がするのだ! …だがしかし、量が多い。多すぎてウンザリ。  そんな時に、 社会起業家さんたちの拠点に、いくつかの雑貨達を引き取っていただける話が出た。  ◆未来区 ソーシャルビジネスパートナーズ  https://melike-jp.com/  「あなたの夢や情熱が、社会問題を解決します」  福岡の直方で、幾つかの企業が集まって、協力して運営している。 なんでも、誰もが集えて使えるコミュニティースペース”囲炉裏”って場所に、 あとこちらで開校している学校「みらいく学院」に、 ”方...