ボーッとしてる/してない
クイズを出して正解を答えられなかった
解答者を「ボーッと生きてんじゃねーよ!」と、5さいの女の子が叱る。
そんなキャラクターの存在、知ってます?
これ。
【チコちゃんに叱られる】
そんな「チコちゃん」に対して、
いろいろな意見がある。
・「せやな!ボーッと生きてる人多いよ!
よく言ってくれました!」という人
・「いやボーッと生きてないし。
あんたに何が 分かるん?」という人
・「まあ状況によりけりだよね」と思う人
・「いやクイズ不正解だったらそういう
リアクションなんだよねぇ。」という人
・特に関心のない人
・そもそも5さいのキャラクターなんて
いたっけ?という人
・その他の人
などなど、実在していない「チコちゃん」に対して、いろいろな価値観をもった人がいる。
そんな中、
「チコちゃん」がいた方がいいのか、
いない方がいいのか。
みたいな話が、出てくることがある。
「いた方がいい!」
「いや今すぐ自粛して使用禁止にして!」
みたいに意見が分かれる感じで。
いた方がいいのか悪いのか。
いいか悪いか、という話をする時は、
何かと比べている時。
「自分がいいと思うもの以外は滅びたらええのに。」という人もいる。
「他人と違う=悪いこと」「その時の自分の気持ちを感じそれに基づいて考え行動すること=身勝手、意味不明」という教えに、素直に従ってきた人達もいる。
単純に「そんなん考えること自体面倒やなー」って思う人もいる。
自分と違う考えの人と、ていねいに言葉を積み重ねて話し合うことはわずらわしいと感じる人もいる。結構いるよね?
空気や雰囲気は自分なりに感じて自分なりに察するけれど、その人が何を考えているかまでその人に尋ねることは、勇気がいるし面倒くさいよねって人もいる。
人と人の間における全てのことは
「いろいろな人がいるよね...」という、
この言葉一択で話せそうな気がしちゃうんだけども。
でもその「いろいろ」の内容を具体的に思うとき、途方もなく感じて、クラクラする。
だってみんな違うからさあー。
「チコちゃん」ひとつの捉え方にしたって違うやん。
「チコちゃん」というキャラクターについて、捉え方が様々なんだったら、
そしてそれを良し悪しで捉えないのならば、
「チコちゃん」が善とか悪とかいう話ではなくなってくる。
「チコちゃんを善と捉える人間がいる」
「チコちゃんを悪と捉える人間がいる」
「チコちゃんを◯◯と捉える人間がいる」
という、ただそれだけのことになる。
キャラクターの存在をきっかけとして、自分の価値観に気付くことが出来るということになる。「チコちゃん」は、自分の本当の思いに気付くための拠り所というかなんというか。
もしかしたら同じ人でも、例えばその日の体調の良し悪し、という要因によって、捉え方が変わるかもしれない。例えば風邪で高熱絶不調の時に見る鳥の唐揚げにはげんなりしても、体調万全絶賛空腹時に鳥の唐揚げを見たら、げんなりどころか喜びで一杯になるかもしれないやん。
つい色々なことを鳥の唐揚げ、じゃなかった、「チコちゃんのせい」にしたいんだけども、どっこいそこは、自分の思いを生み出しているのは、他でもない自分自身でしかない。という結論になっちゃう。だって、チコちゃんを見て思うことがみんな違うんだから。
だから「チコちゃん」に違う感想を抱いた誰かがいたとしても、それはあなたを否定しているわけでも肯定しているわけでもないってことになっちゃうからさー。
他人の目があるのでやめますとか、
他人に悪いから我慢してるとか、
他人のせいにする時代は限界がきたかも。
自分に還る時が来たかも。
あー。今日はチコちゃんチコちゃん言い過ぎたなー。チコチコ。チコっていう響きかわいいよね。知己が由来かな?と思ったけど、その漢字の読み方は「チキ」だった。
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