投稿

11月, 2019の投稿を表示しています

本が好き、文章が好き

イメージ
昔から本が好きだった。 本という存在そのものが好き。 ある人が考えた体系を、まとめようと工夫したものが凝集されていると感じると、 それだけで好き。 文章を書くのも好き。 文章を読むのも好き。 でも、本好きとか文章好きだって言うと、 「カシコ(賢い)やなあw」とか 「真面目だね」 「はいはい、本から入るタイプねw」 と言われることも多かった。 すごく嫌だった。(今でも嫌だ。) だって、なんだかステレオタイプの会話で、 面白くないと感じるから。 「本を読む」「文章を書く」ということと、他の事柄を、全部一緒にして投げつけられている感じがした。 アイデアがないんじゃないですかとか、 ポエムですよね~(笑)、とか 頭でっかちになっていると感じるとか、 いやいや弄ってると見せ掛けて誉めてるんですとか、 そういったことと「本を読む」「文章を書く」という行為は、出来れば、せめて時々は、分けて伝えて欲しいなあーと思うタイプ。 (私自身への言いにくさもあるのかもしれないな。)なんか、「本そのもの」「文章そのもの」なんなら「ポエム(詩)」を冒涜されている感じがする。 因みに私は、 アイデアまだまだ乏しい、 自分に向けた文章もSNSに書いている、 知識に翻弄されて行動できない、 等々ということは沢山あるから(笑)、 コミュニケーションは言葉だけではない。 だからこそ、言葉を使うとき、 丁寧に選んでいきたい。 しっくりくる表現に出会うと、身震いする。 それって、言葉を介して目に見えないものに到達しているんじゃないかと思うよ。 その瞬間を毎日夢見て、 相手に伝わる言葉をずっと探し続けながら。 この前の夕焼けこやけ

あんのうんの中で

イメージ
今日は、 アナと雪の女王2の日本初公開日だわ。 前回の1の時、 主題歌「ありのままに」(Let it go)が大変流行した。 抑えてきた自分を解放して「自由よ!」と叫ぶ。一方で周囲からの孤立をどんどん深めている。あの歌を歌いながら氷の城を創っていくシーンで、その2つの側面がエルサに同時に存在している、そんな歌だったように感じていた。 だから爆発的に流行って大勢があの歌を笑顔で歌うのを見聞きして「泣かずに歌えるの皆スゴい」と、当時思っていた。わたしはボロ泣き~。(でも歌う) そして今回の主題歌。「心のままに」(into the unknown) 前回と全然違う。って思ったんです。 「自分の心の声を信じて従え、未知の冒険に出よう、。」いう内容。しかも、前回の「孤立バッチこーい。そっちのが楽!!」と叫んでいたエルサから変容して、大切な人達や自分の居場所の大切さやぬくもりを重々に知っているエルサが。 因みに、私の大好きなモアナの主題歌と内容が似てる。オマージュかなと思えるシーンもある。 2って、 1とくらべて観る人が少ないことが多いよね。 私は、個人的に2の内容がとても楽しみ。 今の変化変容の混沌にみえる時代に、とても必要なことを教えてくれる、そんな気がします。 1も良かった。プリンセス像が変わったよね。モアナもだけど。プリンセスの横に、寄り掛かるための男性がいなくなった。自分の足で堂々と立ち、守るために行動をするプリンセスになったから。 ディズニーやるな。

1度途切れると数日途切れるねー

イメージ
今のところ、問題も感じていない。 前だったら、 「あーブログ、また途切れさせてもたー」とか、 苦しみ、苦しんでいるのに離れていく、というパターンだったな。 一体、何と比較し、闘っていたんだか。 強迫観念のように、書きたくもないのに「書かなきゃ、書かなきゃ」という状態になって書くことになったら、とてもつまらないなー。と思って過ごしていた。 それも、このブログの目的が、書くことを練習することと、書くことを通じて自分を知るということだからだ。何かをPRすることではない。 そしたら、また書きたくなって書き始めた。 私は福祉の界隈にいて仕事をさせていただいている。お客さんも働く人も、色濃く人。人。 人がいないと仕事がない。だから誰かによって「させていただいている。」という感覚に、私はなるらしい。 そんな福祉界隈で、この大きな変化変容の時代を体験している。職員とか利用者とか関係ない。色々な人の、色々な生きざまの側にいるということ。自分自身もまた、色々な人の中の一部なのだということ。そういったことが、生々しく、極彩色の色味を持って感じられる。 退屈とは縁遠い日々だ。 「正解とか不正解は、なかった。」 ということをまざまざと突きつけられる日々。 あるのは制度だけ。 しかし、制度が枠組みなのではないし、ましてや天井ではない。制度は最低ライン。 最低ラインからどのように造り上げるのか。 他の人と、自分自身で。 自分自身の価値観も、日々アップデートされていく。 面白い。 他の何も不必要と思える程。 でも、ふと、こうやって、書いていくだろう。 それって、何でだろうね。 福祉界隈で仲良くさせてもらっている人の 動きかたも様々だ。すでにこれを書きながら、メッセージのやりとりをした。それぞれに感じ、考え、動いていく。とても心地よい。 さ、朝がきた~。 青々

わたしもあなたも諸悪の根元だし、別にそうでもないし

イメージ
自分のことを分かって欲しい人だらけ。 A「わたしのこと分かってよ!」 B「いーや!それよりわたしのこと分かってよ!」 A「Bのせい。Bが悪い。」 B「いーやAのせい。Aが悪い。」 Q1.このままいったら、どうなると思いますか? Q2.さらに互いに自分の気持ちや考えを相手に伝えずに、AさんはAさんの心の中で、BさんはBさんの心の中で呟き続けたら、どうなると思いますか? Q3.まだまだ自分の気持ちや考えを相手に伝えずに、AさんはAさんの解釈を第3者に話してBさんには伝えない。BさんはBさんの解釈を第3者に話してAさんには伝えない。これを一定期間続けると、どうなると思いますか? Q4.このパターンを抜け出さないようにするためには、どうすればいいと思いますか? Q5.このパターンを抜け出すためには、どうすればいいと思いますか? なんかに気付いたら、 自分にできることをやっていこうよね。 まあ、気付いてもやりたくないって人もいるもんね。他人や何かのせいにしてたら、なんだか楽に思えるかもね。もしくは怖いかも。 秘密の呪文。 「ワタシハコンナニチャントヤッテルノニ、 アイツハナンニモヤッテナイ!」 私は、緩やかな自滅は、もうこりごりやわあ。 だから、やり続けるね。自分に出来ることを。 さー、そこのアナタもご一緒に。 変化こそ常態。 たーのしーよー☆ 寒さをぶっ飛ばせ(脈絡ナシ)

そうでもなくない?

イメージ
キョーゾン。キョーセイ。 共存。共生。 人間が「ありゃ。みんな違うなあ。」って実感したら、 次、どーする?排除しあうか、共存を試みるか、 なんやろかね。 長らく、 数人の指揮官の判断を元に、大勢の人間が従い動き、何かを生み出してきた。 そりゃー凄まじい技術の進歩。法律の整備。知識の蓄積。安心安全な棲み家。 一杯、手に入った。一部の人間だけど。 しかし、大集団を極めたら、今度は無理も出てきたよね。 "個人がありのままでは生きづらい世の中"、ってなもんよ。 ありのままを、自分で認めたことがない人が、 他人をありのままで認められることなんか、なさそうだね。 従う人は従いたくなくなる時がある。 指揮官はひとつの判断ミスでメタメタに叩かれる。 不意に涌き出る怒り、突然こぼれ落ちる涙にも、ちゃんと理由がある。  そんでもってさ、在るものもないことにしようとしてたんだよね。 だから蓋をしてたら、その在るものが「もしもーし、在るんですけどー」って、 蓋をノックしている今の時代。 これ以上無視出来ない感じにノックの音が大きくなってきとる。 みんなが気持ちよくいきられるのはどんな社会やろ? そして、それ目指すまでにどんなことになるんかいな? 個人的には、ワクワクするけどなあ。 共存→ケンカしない。一緒にいることができる。 共生→助け合って生きている。片方がいなくなるともう片方は困る。 わお。個人的には共生、目指したいなあ。 変化はさ、楽しい面もあるし、キツい面もあるんやけど、 出来たら、わたしは人間が滅びて欲しくないからなー。

まんちきちん

イメージ
まんちきちん、って言葉、使いませんか? どういう意味かって「もう一杯、満タン状態」のこと。近畿地方の方言なんかいな。 いや、まんちきちんを熱く語りたい訳じゃなく。 まんちきちん、あ、また打ってしまった、いわゆる満タン状態は、 すごく満たされているのかなあ、という話を考えてみたかった。 私の感覚では、必ず「満たされている」という訳でもない感じがする。 「うーっ、苦しい苦しい!パンパン」という状態のことが多い感じ。 例えば食事もどうなんやろね。 満腹まで食べたとする。 「うーっ、もう食えない!お腹パンパン!動くと苦しい」って時。 本人は恐らく、ちょっとした幸せと達成感、そして苦しさがある。 マジの満腹の時の苦しさって、形容し難くないですか。 周囲の人は「あーあの人、満腹なんだ、幸せそうだなあ~」か「うわー苦しそうー」 と思って、いつまでも釘付けにはならない。 内蔵には非常に負荷がかかっている。 そういえば人間の歴史、食べ物が飽和状態かつ高カロリーな国がそこそこ広い面積をしめるような環境になったのはまだ最近のこと、食べ物は基本なくて飢餓と隣合わせだった時代がすごく長かったから、基本「食べ物をみたら沢山食べようとする、幸せを感じる」という感覚があるらしい。 今はそうじゃないのにね。 満タン状態じゃない時は、 満タン状態に恋い焦がれ、目指そうとする。 でも一度満タン状態になったら、「もう充分です」と、 そこに留まろうとするかしら。 しないよね。 いつの時代だってそう。 じゃ、今の時代はどんな時代やろ? あなたはどう思います?

ボーッとしてる/してない

イメージ
 クイズを出して正解を答えられなかった 解答者を「ボーッと生きてんじゃねーよ!」と、5さいの女の子が叱る。 そんなキャラクターの存在、知ってます? これ。 【チコちゃんに叱られる】  そんな「チコちゃん」に対して、 いろいろな意見がある。 ・「せやな!ボーッと生きてる人多いよ!      よく言ってくれました!」という人 ・「いやボーッと生きてないし。        あんたに何が 分かるん?」という人 ・「まあ状況によりけりだよね」と思う人 ・「いやクイズ不正解だったらそういう       リアクションなんだよねぇ。」という人 ・特に関心のない人 ・そもそも5さいのキャラクターなんて     いたっけ?という人 ・その他の人  などなど、実在していない「チコちゃん」に対して、いろいろな価値観をもった人がいる。  そんな中、 「チコちゃん」がいた方がいいのか、 いない方がいいのか。 みたいな話が、出てくることがある。 「いた方がいい!」 「いや今すぐ自粛して使用禁止にして!」 みたいに意見が分かれる感じで。 いた方がいいのか悪いのか。 いいか悪いか、という話をする時は、 何かと比べている時。  「自分がいいと思うもの以外は滅びたらええのに。」という人もいる。 「他人と違う=悪いこと」「その時の自分の気持ちを感じそれに基づいて考え行動すること=身勝手、意味不明」という教えに、素直に従ってきた人達もいる。  単純に「そんなん考えること自体面倒やなー」って思う人もいる。 自分と違う考えの人と、ていねいに言葉を積み重ねて話し合うことはわずらわしいと感じる人もいる。結構いるよね? 空気や雰囲気は自分なりに感じて自分なりに察するけれど、その人が何を考えているかまでその人に尋ねることは、勇気がいるし面倒くさいよねって人もいる。   人と人の間における全てのことは 「いろいろな人がいるよね...」という、 この言葉一択で話せそうな気がしちゃうんだけ...

やり方はなんでもいいって

イメージ
ブログを再開するにあたり。 わたし、改めて面と向かってやろうとすると、 出来ない性質でしたわ。 そうじゃないかもと思っていたけど、 やっぱりそうでしたわ。 だから「よしブログ書こう!」と思って向き合うと、出来ませんでしたわ。 じゃあ思ったときにサササとやっちゃうのが 一番向いとるな。 これを進めていくと「多動」になるんだろう。 周囲の皆さん、あきらめてね! 文章を書くのは好き、 時間は十分にない。 でも、サササとやっちゃう性分である。 →条件として最高じゃね? というわけで書きます。 頭に溢れていることを。 「文章を書く時間を設けなければいけない」と思い込んでた。 私にとっては最も合っていないスタイルやんけ。 そりゃ、書けんわ。(笑) 私はなんか言いたいんやろな。 今の変化の世の中に。 いいこともわるいことも沢山起こるように見える世の中に。 案外わるくないよ、って。 あなたはどう思いますか?